視線恐怖症改善へ向かう 忍者ブログ

視線恐怖症を自己克服するにはそうすればいいのか。視線に恐怖を感じる症状です。

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

これまで、「視線恐怖症」について書いてきましたが、「見ること」「見てしまうこと」が悪いとは私は思いません。


「視線恐怖症」の方にとっては理解が難しいかもしれませんが、人間は「見ること」で自分がわかる、ということもあります。他人の持ち物で「いいな」と思うものがあれば、なぜそれに惹かれるのかという疑問が生まれ、「自分の好きなもの」が少しずつわかってくることもあるし、逆に「自分が苦手なもの」もわかってくるでしょう。もし、他人が自分の「苦手なもの」を持っていたとしても、それで自分とは性格が合わないというわけでは決してありません。そんな時こそ「苦手もの」に一歩近づくチャンスなのです。その為には、人を理解し、受け入れること。自分の意見ばかり通しても、相手との距離が広がるばかりです。「なぜそれを持っているのか」「どこに惹かれたのか」など、自分が思っていることを純粋に質問してみたらいいのです。


人間は、「自分が好きなもの」を語るのが上手です。それは、共感してほしいという気持ちの表れであり、相手と近づく為の大きなチャンスであるからです。相手の話を聞いて、今までと考え方が変わっても、変わらなくても、それは大きな問題ではありません。人の話を聞き、理解しようとする気持ちが大切なのです。そうやって人と繋がっていくと、相手がどういう人間なのかが見えてくるでしょう。仲が良いから「好きなもの」も同じとは限りません。むしろ、自分とは真逆の人との方が、より楽しい時間を過ごせるのではないでしょうか。
PR
人間は、命が宿った瞬間から一人では生きていけません。父親がいて、母親がいて、誕生してからはたくさんの他人とも関わって生きて行くことになります。


人と接するということは、とても楽しく、嬉しいものです。ですが、何事においてもメリットとデメリットは存在するもの。人と関わることは「良いこと」ばかりでは決してありません。
自分に「好きなもの」と「嫌いなもの」があるように、他人にもそれは同じように存在します。
人間が育った環境は、人それぞれであり、似ていることはあっても、同じ環境というのはないでしょう。皆、オリジナルな環境で育ってきたのです。、となると、人によって「好きなもの」と「嫌いなもの」が違うのは当然の話。自分の「好きなもの」が他人の「嫌いなもの」であったり、またその逆も然り。
自分と同じ好みの人を探す方が難しい世の中なのです。


では、人間は自分と同じ好みの人と出会えれば、それでよいのでしょうか?
そうではありません。
この世に「世界中の皆に愛される人」「と「世界中の皆に嫌われる人」はどとらも存在しません。
それはなぜか。
人間は、皆、認め合って生きているからです。


自分にとっては「短所」だと思っていることでも、ある人から見たら「長所」になることもある。
それは自分以外の誰かが、自分を見てくれているからわかってもらえることです。
しかし、最近では「見てくれている」というより、「見られている」という考えが主流になっているような気がします。


今回は、人との関わりから生まれる「視線恐怖症」について考えてみたいと思います。
「見る」側、ここでは「見てしまう」と言った方が正しいかもしれません。
「見てしまう」側には、自分のアンテナにヒットしたものが自然と目に入ってしまう、という傾向があることがわかりましたが、では「見られてしまう」側はどうでしょうか。


もちろん「見てしまう」と言っても、顔を近づけてまじまじと見るのとは違いますから、「見られてしまう」人は気づいていないかもしれません。しかし、人間というのは不思議なもので、「視線を感じる」というのが、偶然ではないことがあります。そして、それを視界の角で確認してしまうのです。


眼鏡をかけている人は、また別かもしれませんが、裸眼や、コンタクトの場合の人間の視界は、思っているよりも広い、と私は思います。なぜなら、視界の角に一瞬映っただけの人や物でも、何かしらの感覚を感じることがあるからです。それは色や形で映し出され、それを目にしただけで「懐かしさ」や「いいな」という感覚を思い起こさせたりします。


自分が見ている視界が広いということは、「見られている」人の視界も同じ。「見られているかも」と察知した人の視界には、確実に「見ている」自分の姿も映し出されているのです。でも、それはその場だけのこと。他人であるからそういった事が起きます。その場だけのことなら問題は無いと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、実は「見られてしまう」人の中には、それが「恐怖心」になってしまう人が存在するのです。
冒頭にも述べましたが、この世に生命が誕生した瞬間から、人間は一人では生きていけません。これからたくさんの人達と出会い、傷つき、傷つけられて生きていくのです。大人になり、年をとり、そして亡くなります。
学生時代は、友達を選ぶということもできますが、社会に出たらそういうわけにはいきません。職場であればなおさらです。今まで出会ったことのないような難しい人にもたくさん出会います。


もし、「視線恐怖症」のまま働くとしたら、どうなるでしょうか。
「自分は視線恐怖症だから、人前には出られない」などという甘えは許されません。皆、お金をもらって働いているのです。「視線恐怖症」で苦しんでいる人も、そうでない人も、人生は長いのです。嫌でも人と関わって生きていかなければなりません。それならば、自分を責め、抑えることはやめて、自分の好きなものを身につけ、堂々と生きて行く方が人生は楽しいに決まっています。そうなれた時、もし「視線」を感じても、それは自分が輝いているからだと思えるでしょう。


人生は何事も考え方次第です。人に見られているなら、自分も人を見る。すると、人の良いところを見つけることができ、仲良くなれる。そして、自分の良いところを誰かに見つけてもらった時、人と関わることの素晴らしさを実感すると思います。人は皆、繋がって生きているのです。
「視線恐怖症の人」にとっては理解できないかもしれませんが、私のように「見てしまう」人間にとっては、その人の「靴」や「バッグ」など、持ち物が自分の「好き」なアンテナにヒットしから見てしまった、ということが多いのが現実です。「視線恐怖症」の人達にとっては「なぜ見るのか」と不安にさせてしまうかもしれませんが、その人自身が身につけているものなどが、他人に「いいな」と思わせているということなのです。人間は皆同じではないので、一概には言えませんが、少なくとも私は「そういう目」で見ています。 そう簡単には人の性格は変えられません。長年「視線恐怖症」に苦しんできた人ならなおさらです。しかし、冒頭でも述べたように、「世界中の皆に愛される人」も「世界中の皆に嫌われる人」もどちらもこの世の中には存在しません。人によって「好きなもの」と「嫌いなもの」は異なるのが当然です。自分を「見ている」人達は、誰からも愛されている人達ではありません。人間は皆、平等なのです。 「見られている」というのは、全てが思い込みだと思うようにする、という考え方もあるかもしれませんが、私は「見られている」という意識をなくさずに、それを「見てくれている」と受け取める方がいいと思います。同じように、自分も人を見てあげればいいのです。始めは「観察」からでもいいと思いますが、その内に人間の色んな面が見えて来ると思います。

コメント
トラックバック
プロフィール
管理者:No Name Ninja
【管理者へ問い合せ】

※誹謗中傷等へは対応しません
バーコード
Copyright 視線恐怖症改善へ向かう by No Name Ninja All Rights Reserved.
Template by テンプレート@忍者ブログ
忍者ブログ [PR]